序章|終わっていない問い
1945年8月15日、
日本は戦争を終えた。
けれど、その日に独立したわけではない。
日本はその後も占領下に置かれ、
1951年に
サンフランシスコ講和条約が署名される。
そして1952年4月28日、
条約が発効し、主権を回復した。
「終戦」と「主権回復」は、別の日だった。
では、終戦からの約6年半に何があったのか。
主権回復とは
・外国の軍による占領が終わること。
・自分たちの国を自分たちで決める権利を取り戻すこと。
・独立した国として国際社会に戻ること
日本は何を取り戻し、何を手放し、何を残したのか。
その答えを、1945年8月からたどってみたい。
第1章|占領という空白

1945年8月、日本は戦争を終えた。
しかし、すぐに元の日本へ戻ったわけではない。日本は連合国による占領下に置かれた。
実際の占領統治は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のもと、米国を中心に進められた。
日本政府や国会は残ったものの、
その上にはGHQがあり、日本政府はその指示に従って政治を行った。

実際には日本本土の分割統治は実施されず、GHQのもとで米国を中心とした
占領統治が行われた。
つまり、日本という国は残っていても、自分たちだけで国の進む方向を決められる状態ではなかった。
占領の中では、再び戦争を起こさないための非軍事化や、政治・社会の改革が進められた。
日本は大きく変わっていった。
けれど、戦争が終わっても、日本の「独立」はまだ戻っていなかった。
では、この状態はどうやって動き始めたのか。
鍵となるのは、日本の国内だけではなく、戦後の世界で起きていた変化だった。
第2章|世界が動き、日本の意味が変わる

戦争が終わった直後、アメリカにとって日本は、二度と戦争を起こさせないことが重要な国だった。
ところが、戦後の世界は急速に変わっていく。
アメリカとソ連の対立が深まり、
中国では1949年に共産党政権が成立。
そして1950年には朝鮮戦争が始まった。
東アジアでも、アメリカと共産主義陣営の対立が強まっていった。
その中で、日本の位置づけも変わっていく。
日本は単に「戦争をした国」ではなく、東アジアの中で重要な位置を持つ国として見られるようになった。
日本をどうするのか。
占領をいつまで続けるのか。
そして、日本を国際社会へ戻すにはどうすればいいのか。
こうした問題が、少しずつ現実のものになっていく。
ただし、世界の都合だけで日本の未来が決まったわけではない。
次に動き始めるのは、日本自身だった。
第3章|日本、動き出す

世界の情勢が変わる中、日本でも講和と独立をどう進めるかが課題になった。
講和
戦争を正式に終わらせ、国と国との関係を平和な状態に戻すこと。
当時、内閣総理大臣だった《吉田茂》は、国際社会への復帰を目指して動き始める。
一方、アメリカも講和を進めようとし、ソ連や中国、インドなどはそれぞれ異なる立場を取った。
つまり、「日本の独立」をめぐって、国ごとに異なる思惑が動いていた。
1951年、講和会議でセイロン(現スリランカ)代表のジャヤワルダナが演説した。
彼は、日本に対する賠償請求を放棄する意思を示し、日本との和解を訴えた。
その中で述べたのが、
「憎しみは憎しみによって止むことはなく、愛によってのみ止む」
という、仏陀の教えとして紹介した言葉だった。
この演説は、講和会議の一場面として日本への理解を示す重要な発言だった。
ただし、この演説だけで講和条約が成立したわけではない。
条約が成立するまでには、米国を中心とする外交交渉や、各国それぞれの利害があった。
ジャヤワルダナの言葉は、その大きな流れの中にあった一つの声だった。
そして日本は、独立と引き換えに何を受け入れることになったのか。
第4章|取り戻したもの、手放したもの
1951年9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に署名した。
条約が発効すれば、日本は主権を回復し、国際社会へ戻ることになる。
その一方で、日本は戦前に持っていた権利の一部を手放した。
台湾・澎湖諸島、朝鮮、千島列島、南樺太などに対する日本の権利・権原・請求権を放棄した。
沖縄・奄美・小笠原については少し事情が違う。日本が主権そのものを放棄したのではなく、条約第3条によって、米国の施政権下に置かれることになった。
つまり、講和条約は単に「日本を独立させる」だけのものではなかった。
第5章|条約だけでは終わらなかった
日本が何を取り戻し、何を手放し、どこに線を引くのか。
その条件が、条約の中に記された。
そして、その線のすべてが、この条約だけで決まったわけではなかった。
サンフランシスコ講和条約によって、日本の主権回復は決まった。
しかし、日本をめぐるすべての問題が、この条約だけで整理されたわけではない。
ただし、「日本が放棄したこと」と「その領土が誰に帰属するかが、この条約によってすべて決まったこと」は同じではない。
中国は講和会議に参加せず、ソ連も条約に署名しなかった。
また、日米安全保障条約は講和条約とは別に結ばれ、日本の占領が終わった後も、米軍が日本に駐留する仕組みが残った。
つまり、占領が終わることと、外国軍が日本からいなくなることは同じではなかった。
領土についても、条約によって日本が放棄したことと、その後の帰属や扱いがすべて決まったことは同じではない。
日本は主権を取り戻した。
けれど、その独立を取り巻く国際関係には、1952年以降へ引き継がれる問題も残っていた。
そして、いよいよその日が来る。
第6章|1952年4月28日

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。
1945年に戦争が終わってから、約6年半。
その間、日本は占領下に置かれ、世界情勢が変わり、日本自身も講和に向けて動いた。
そして条約の発効によって、日本は主権を回復した。
"戦争が終わった日と、主権を取り戻した日は同じではなかった。"
1945年8月15日から始まった「戦後」は、ここで一つの区切りを迎える。
日本は再び、自らの国として国際社会に戻った。
けれど、それはすべての問題が終わった日ではない。
何を取り戻し、何を手放し、何を残したのか。
その続きを、今の僕たちは生きている。
終章|現在の問い
1945年、日本は戦争を終えた。
それから約6年半を経て、1952年4月28日、日本は主権を回復した。
その間に、日本は何を取り戻し、何を手放し、何を残したのか。
講和条約は、日本を国際社会へ戻す道を開いた。
一方で、沖縄などの施政権や領土をめぐる問題など、後に引き継がれたものもあった。
だからこそ、1952年4月28日を知ることは、単に「日本が独立した日」を知ることではない。
日本が、どのような条件のもとで独立を取り戻したのかを知ることでもある。
そして、その続きを生きているのは、今の僕たち。
あの日、日本は何を取り戻したのか。
そして、僕たちはその独立を、どう受け継いでいるのだろうか。

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