2026年7月、参議院で「改正皇室典範」という法律が可決・成立した。
序 改正皇室典範という法律

皇室典範(こうしつてんぱん)とは、
天皇や皇族について定めた法律のこと。誰が天皇になれるのか、皇族とはどんな存在なのか、そういったルールが書かれている。
今回の改正は、皇族の数がどんどん減っていることへの対応として生まれたもの。(8代連続 女性が産まれた為)
単なる制度改正のように見えるが、その背景には、この国が長く受け継いできた「時間の軸」がある。
ほんの一時代の政治判断で、天皇の在り方について変更をしてよいものなのか。
一、何が変わったのか

改正の中身は、大きく三つに整理できる。
一つ目は、第9条の変更。
もともと、この条文は
「皇族は養子をすることができない」と定めていた
(このルールの原型は、明治22年に作られた最初の皇室典範にもあった。ただし今の第9条は、戦後の1947年にGHQのもとで作り直された、今の皇室典範のもの)。
養子とは、
養子とは、法律上の手続きによって親子関係を結ぶ制度である。戸籍上は実子と同じ立場になる。
※正しくは
皇室では戸籍ではなく「皇統譜」という独自の記録で皇族の身分が管理される。
改正では、この「養子禁止」というルール自体は残しつつ、
“例外”を新しく付け加えた。
旧宮家(きゅうみやけ)と呼ばれる家系の男性を、条件つきで皇族の養子に迎えられる道が開かれた。
旧宮家とは、
1947年に皇族の身分を離れた11の家系のこと。このことについて後でもう少し深く説明します。
条文では、養子となれるのは
「皇室典範による皇族男子であった者の嫡男系嫡出(ちゃくなんけいちゃくしゅつ)の子孫である現に皇族でない年齢15年以上の男子」に限定されている。
「嫡男系嫡出の子孫」とは、
父方をたどると旧宮家に行き着き、かつ正式な婚姻から生まれた男子、という意味。
養子となった本人には、皇位を継ぐ資格は認められない。一方で、養子となった後に生まれたその子(男系の男子)には、皇位継承の資格が認められる。皇族としての地位は「実方の系統による」と定められていて、民間から迎えた本人と、その後の世代とで扱いを分ける、二段階のしくみになっている。
二つ目は、第12条の変更。
これまで、内親王や女王(天皇の娘や孫にあたる女性皇族)は、皇族以外の男性と結婚すると皇族の身分を離れることになっていた。 改正後は、皇室会議という場での話し合いを経て、結婚後も皇族の身分を保ったまま暮らせる道が用意された。
三つ目は、「30年ごとに見直す」という決まりが付則
付則(ふそく、法律の本文に付け加えられた補足のルール)に書かれたこと。この制度が完成形ではなく、これからも検討され続けるものだという含みが、そこに残されている。
二、なぜ男系にこだわるのか、伏見宮という源流

現在の天皇は
第126代・徳仁(なるひと)陛下、
令和元年(2019年)の即位である。
日本国憲法では
「日本国及び日本国民統合の象徴」と定められている。
男系継承(だんけいけいしょう)とは
父方をたどっていくと初代・神武天皇に行き着く血筋のこと。能力や人柄を受け継ぐという考え方ではない。
同じ一本の血筋を絶やさない、という歴史に対する約束事。だからこそ、その約束を守るための仕組みが、江戸時代からずっと用意されてきた。
旧宮家と呼ばれる11の家系—

—伏見宮(ふしみのみや)、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、山階宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮、閑院宮、小松宮は、いずれも伏見宮を大もとの源流とする分家にあたる。
1947年、戦後の占領政策(GHQの方針)によって皇族の身分を離れ、以来約80年、一般の国民として生きてきた家系である。
伏見宮家は南北朝時代に生まれた、代々皇族の身分を受け継ぐ特別な家だった。
いわば「本家(天皇の家系)の血筋が絶えそうになったとき、いつでも男系の男性を送り出せるように」用意された予備(バックアップ)のしくみで、この仕組みは江戸時代に完成したと言われることが多いが、実はもっと早く、室町時代からすでに機能していた。
1428年、称光天皇が跡継ぎのないまま亡くなったとき、伏見宮家から養子として迎えられ即位したのが
後花園天皇(ごはなぞのてんのう、102代)である。伏見宮家そのものから皇位に入った、いわば「本家直系の初めての実例」。
それからおよそ350年後の1779年、後桃園天皇が22歳の若さで、後継ぎの男の子がいないまま亡くなった。このとき、閑院宮家からわずか9歳で迎えられ、即位したのが光格天皇(こうかくてんのう)である。このとき使われたのが「猶子(ゆうし)」というしくみだった。
猶子とは、
養子とよく似ているけれど、少し違う。 江戸時代までの公家や武家、皇室で使われた慣習で、戸籍や血統の記録は書き換えず、「子どものように扱う」という関係。
実の家の記録はそのまま残るのが特徴。 光格天皇の場合も、現役の皇族だった閑院宮家から、猶子という緩やかな形で迎えられた。
今回はそれと違う。
現代の法律の「養子」というしくみを使い、戸籍にも正式に組み込む。しかも、80年間、選挙権を持ち税金を納め、一般の国民として生きてきた家系から迎える。皇統として位置づけられてきた家系であるとしても、その「80年という時間の断絶」こそが、今の時代ならではの重みを生んでいる。
法律は、一日で変えられる。しかし、人が積み重ねた時間は、一日では取り戻せない。
三、今上天皇の目線で考えてみる

ここからは少しだけ、今上天皇の立場に思いを寄せてみたい。
2016年、父(現在の上皇さま)はビデオメッセージの中で、象徴としての務めについて、率直な思いを国民に語った。高齢になったことや、公務を続ける大変さという言葉の奥にあったのは、象徴という役割の重圧や責任。
引き継がれた今上天皇もまた、日々の務めの中で背負っておられるのだろう。
祭祀があり、地方への訪問があり、国民の悲しみに寄り添う場面があり、喜びに立ち会う場面がある。一つひとつは、ただの形式ではない。国民がそこに何を見るかを、いつも意識してこられたはず。
そして今度は、600年前に祖先を同じくする、遠い遠い親族を家族に迎えることになる。血のつながりに嘘はない。
けれど昨日まで隣人として生きていた人が、法律ひとつで皇族となる。その人自身の戸惑いも、迎える側の戸惑いも、想像に難くない。人数を確保することと、その人数がほんとうに支えとなることの間には、まだ埋まっていない距離がある。
象徴という役割は、儀式をこなすだけの役目ではない。国民の暮らしのそばに、静かに立ち続ける役目だ。それは、こちらから一方的に寄り添うだけでは成り立たない。国民もまた、その歩みに心を寄せてくれてこそ、初めて息づくものだと思う。
四、延命の先にあるもの

今回の改正で、皇族の人数という点では、当面の危機は避けられた。悠仁さまが将来、孤立した皇室を背負う状況を避けるための土台は整えられた。
けれど、その次の世代をどうするのかという、いちばん根本的な問いには、まだ答えが出ていない。養子に入った家系に、次の世代の男の子が生まれなければ、同じ危機は形を変えてまた訪れる。今回成立したのは解決策というより、次の世代へ託された宿題に近い。
付則には、30年ごとに見直すという一文がある。この一文こそが、今回の改正の性格をいちばんよく表しているのかもしれない。今回の改正は、皇室のしくみを完成させた法律ではない。三十年後に再び見直すことまで含めて、一つの通過点なのだ。
万世一系(ばんせいいっけい)
万世一系という言葉がある。初代の神武天皇から今の天皇まで、一つの血のつながりが一度も途切れずに続いてきた、という考え方のこと。
すべての代を歴史的に証明できるかどうかは学者の間でも議論があるけれど、「そう位置づけられてきた」ということ自体が、日本の皇室を特別なものにしてきた。
皇紀(こうき、神武天皇が即位したとされる年を1年目とする数え方)で数えれば、2680年になる。
三島由紀夫
作家の三島由紀夫は『文化防衛論』(1968年)の中で、
天皇を「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」と表現した。過去から続く時間の軸であると同時に、今この瞬間にも国民とつながる空間の軸でもある——そう位置づけたのだ。三島にとって天皇とは、何かを主張し所有する存在ではなく、自らを空しくすることでその軸であり続ける「没我の王制」だった。
神武天皇以来とされる長い時間は、一つの時代だけのものではない。私たちは、その流れの途中に立っている。今回の改正が、未来から振り返ったとき「伝統を守るための一歩」と評価されるのか、それとも「伝統を変えた一歩」と語られるのか。その答えは、一つの時代だけで決められるものではないのだと思います。

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