大人になっても知りたがり
知識を『まったり探求』している
タクヤの備忘録です。
2026年 僕は今年、本厄の年になります。
そこで厄祓いや本厄の《厄》について深堀してみました。
目次
──西国仏教と密教に見る、「厄を焼く」という思想
厄年(やくどし)とは
日本において古くから「人生の転換期」や「災難が起こりやすい時期」として慎んで過ごすべきとされる年齢のこと。
多くの人は「悪いことが起こる年」「気をつけるべき年」という印象を持つと思います。
事故、病気、人間関係の不調。
理由のはっきりしない不安を、
私たちは「厄」という言葉でひとまとめにしてきました。
よくよく調べると、
西国(さいこく)の仏教文化、とくに比叡山や高野山を中心に育まれてきた思想では、厄年は単なる不運の予告ではないみたいです。
西国(さいこく)の仏教
主に日本最古の巡礼行である「西国三十三所の巡礼」に関連した信仰
近畿2府4県(和歌山・大阪・奈良・京都・滋賀・兵庫)と岐阜県にある33箇所の観音菩薩を祀る寺院の総称。
厄年はむしろ、
人生の巡りが切り替わる地点を知らせる合図。
災いではなく、役割の転換点。
厄 ⇔ 役。
立場が変わり、責任が増し、
それまでとは違う振る舞いを求められる。
外から災いが降ってくる状態ではなく、
内側にかかる圧が変わる時期。
生き方が切り替わる節目では、
どうしても無理が出る。
その歪みが表に出やすい年を、
人は「厄」と呼んだのかもしれない。
比叡山と高野山──整える思想と、変換する技法
比叡山を源流とする天台仏教は、
《世界全体の調和や循環》を重視。
高野山に代表される真言密教は、
現実そのものを《変換する》技法を持つ。
密教
理解や納得で完結する思想ではなく、
真言を唱え、身体を動かし、
火や音といった具体的な現象を通して、目に見えない偏りを扱う。
「身体で行う仏教」
星祭・節分・九曜──抗わず、乗りこなすための視点
星祭(ほしまつり・星供養)
節分(2月3日頃)に行われる密教系の法要で、生まれた時の星(本命星)と年ごとに巡る星(当年星)を供養し、厄除け・開運・無病息災を祈願する。
インドの古い占星術に由来し、星の力でその年の吉凶を定め、悪い星の年は災難を免れ、良い星の年はさらに福を増すように祈るのが特徴で、祈祷したお札を持ち帰って1年間お祀りします。
九曜(くよう)
七曜(日・月・火・水・木・金・土)に羅睺(らご)と計都(けいと)の
2星を加えた9つの天体のこと。
羅睺と計都は
日月食に関係するとされる架空の星
(昇交点・降交点)。
インド占星術に起源を持ち、陰陽道などで運命の吉凶を占うのに使われる。
星祭(節分)では、その年に影響を与えると考えられてきた九つの星の巡りに意識を向ける。
九曜を用いて運勢を読み解くことで、自分の意志や努力だけではどうにもならない、大きな流れやリズムを知り、その流れに無理に逆らうのではなく、どう向き合い、どう乗りこなすかを見直すための節目の儀式。
節分も実は同じで、
内と外を分け、古い巡りを一度終わらせる。
季節と役割を切り替えるための、明確な区切り。
大柴燈護摩供──「厄を焼く」という行為
密教的実践の象徴が、
大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)
護摩では、火そのものを仏として立て、
供物を投じていく。
ここで行われているのは、
願いを叶えてもらう祈祷ではない。
厄を焼くとは、
何かを消してもらうことではなく、
もう抱え続けなくてよいものを、火に預ける行為。
役目を終えた価値観。
無意識に背負ってきた役割。
圧縮され、硬くなった生き方。
それらを、
火という圧倒的な物理現象に通し、
別の相へ移していく。
護摩の炎は、
理解のためにあるのではく、
身体に直接入力されるためにある。
視覚、熱、音、煙。
情報過多で張りつめた意識を、
一度強制的に静める。
密教が「祈り」ではなく
変換の技法と呼ばれる理由が、ここ。
焼いたあとに残るもの
厄を焼いたあと、
そこに残るのは
何かを得た実感ではないかもしれない。
むしろ、
少しだけ軽くなった空白。
決めきられていない余白。
その空いた場所に、
何が入ってくるのかは決まっていない。
祈りで選ばれるのではなく、
日々の選択の中で、
静かに形を取っていく。
まとめ
厄年とは、
怖がる年ではなく、
立ち止まり、自分の巡りを調整する年。
そう捉え直したとき、
「厄(役)を焼く」という言葉は、
不思議と静かで、
現実的な意味を帯びてくる。
以上参考になりましたら幸いです。
最後まで読んでいただき
ありがとうございます。

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