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「終戦記念日」は誰にとっての記念日なのか?
日本には、何度か“改新”と呼ばれる節目があった。 大化の改新、明治維新
──そして、1945年の夏。 8月15日を、日本は「終戦記念日」と呼ぶようになった。
広島の平和記念碑に刻まれた言葉
《安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから》
この一文、よく考えたらちょっと違和感がある。 「誰の過ち」か、主語が書かれていない。
石原慎太郎さんはこれを指して、
日本に原爆を落としたのはアメリカだけだよ。世界中で被爆したのは日本人だけだよ。広島の被爆地に行くと、「過ちは繰り返しません」と書いてある。「繰り返しません」というのは、主語が「私たち」ということじゃないですか。「繰り返しません」というのは、これは おかしい。
過ちを犯したのはアメリカで、日本人はあくまで被害者で、主語を明確にするなら「過ちは繰り返させません」というのが当然じゃないの、僕はそう思うけれど。
平成23(2011)年9月2日(金)の定例記者会見

大日本帝国憲法から日本国憲法へ
1945年8月15日。 日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争を終えた。 だけど実際には、「戦争に負けた」だけではなくて、 “魂の構造”ごと、大きく作り替えられる分岐点でもあった。
その象徴が、「日本国憲法」。
大日本帝国憲法(明治憲法)から日本国憲法に変わったときの“大きな変更点”は、ざっくり言えば「統治の軸」と「国民の立ち位置」
1. 主権の所在
- 大日本帝国憲法:天皇主権(天皇が国家の最高権力者)
- 日本国憲法:国民主権(主権は国民にあり、天皇は象徴)
2. 天皇の地位と権限
- 明治憲法:天皇は統治権の総覧者で、立法・行政・司法すべての最高権限を持つ
- 日本国憲法:天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」、政治権能を持たない
3. 軍隊と戦争に関する規定
- 明治憲法:天皇が陸海軍を統帥、戦争も国の権利として認められる
- 日本国憲法:第9条で戦争放棄・戦力不保持を明記
4. 国民の権利と義務
- 明治憲法:国民の権利は「法律の範囲内で」認められる(権利は天皇から与えられる形)
- 日本国憲法:基本的人権は「永久の権利」として、国家も侵せないと明記
5. 政府の構造
- 明治憲法:天皇の下に帝国議会・内閣・裁判所が置かれる形
- 日本国憲法:三権分立(立法=国会、行政=内閣、司法=裁判所)を明確化し、相互に抑制・均衡
つまり、天皇を頂点とした“垂直構造”から、国民を起点にした“三権分立の水平構造”に書き換えられた。
しかもこれ、GHQがたった約2週間で草案を作ってる。

日本側の案(松本案)は「不十分」とされ、GHQが主導して作成。 表面上は「日本が自主的に作った憲法」とされてるけど、実質的にはアメリカが設計した“思想の骨組み”。
これは単なる法改正ではない。 それまでの価値観、国家観、命の扱い方… そういう深いとこを、まるごと「刷新」するようなものだった。
目に見える“戦争”が終わったその裏で、 目に見えない“精神の改新”が、静かに始まってたのかもしれない。
終戦記念日は、ただの「平和の祈りの日」なのか。 それとも──「何かを失った日」なのか。
祈りのズレが、分断を生む

靖国神社に手を合わせる人。 原爆の日に黙祷する人。
どちらも、「命の尊さ」を願ってるはずなのに、 どうしてか、このふたつはしばしば“対立”の構図で語られる。
特に8月は、靖国に行く政治家を批判する声がニュースでよく流れる。
「過去の侵略を美化するな」とか、「戦争責任を忘れるな」とか。
でも本来“祈り”は、誰かを責めるためのものなのか?
靖国神社に祀られてるのは、戦争で亡くなった人たち。 それも、「国家のために命を捧げた」とされた人たち。《英霊》
その存在は、良くも悪くも“国家観”とセットで見られてまう。
一方、広島や長崎では「犠牲になった市民」が中心になる。 「こんな悲劇を二度と繰り返したらいけない」と。
どっちも大事。だけど、同じ「戦争の死」を前にしながら、 片方は“追悼”され、もう片方は“非難”される。
このズレが、今の日本に深い“分断”を残してる。


押しつけられた「平和」、刷り込まれた「価値観」

戦後の日本には、GHQ(連合国軍総司令部)によって仕込まれた、ある種の“思想プログラム”があった。
GHQが敗戦後に行った統治政策。その柱にあったのが、《3R,5D,3S政策》
3R 思考操作
- 報復(Revenge):国家神道や天皇制に対する“精神的制裁”
- 改革(Reform):民主主義・個人主義の徹底インストール
- 更生(Rehabilitation):日本人の“思想改造プログラム”
5D 再び立ち上がれない国家構造
- 武装解除(Disarmament):軍事力をなくす
- 民主化(Democratization):外来モデルの政治制度に置き換える
- 中央集権解体(Decentralization):統一の指揮系統を弱める
- 財閥解体(Defederalization):経済支配層を分断
- 工業力解体(Deindustrialization):基幹産業を弱体化
3S 考える時間を削るために、娯楽と快楽を与える。
- 映像・娯楽(Screen) 現実感を薄める
- スポーツ(Sports)熱狂と疲労を与える
- 性(Sex)感情と快楽に意識を向けさせる
“戦後の物語”と、記念日には ならない感覚
毎年8月15日になると、テレビや新聞では「終戦記念日」という言葉が飛び交う。
けど、正直に言えば、僕の中ではいまひとつ“記念日”としてピンとこない。
記念日って、本来は「何かを祝う日」とされることが多いと思うのだが、
記念日に“喪に服す。と言う違和感。
「終戦」って言葉自体も、よくよく考えたら少し変。
“終わった”って言うけど、それって日本が選んだことではなくて、 事実上「敗戦」して、GHQが来て、無条件降伏したって話。
それを敗戦国側なのに「終戦記念日」として、制定されている違和感。
戦後の日本をどう見ていたのか──親日国の視点から

日本が1945年に敗戦してから、アジアの国々は一様に「侵略者」として日本を見ていたわけではない。
インドネシアやパラオをはじめ、いくつかの国は、日本を「独立のきっかけを作った仲間」として記憶している。
インドネシア──「独立を50年早めた存在」
1942年、日本軍はオランダ領だったインドネシアに進駐。
300年以上続いたオランダ植民地支配を事実上終わらせた。
占領下では厳しい労務動員や食料不足もあったが、日本は現地人を行政や軍事に登用し、日本語教育を行った。
この経験が独立指導層の育成につながる。
終戦のわずか2日後、1945年8月17日にスカルノとハッタが独立宣言。
その副大統領モハマッド・ハッタはこう語っている。
「日本が来なければ、我々の独立は50年遅れていただろう。」
この言葉は、単なる歴史評価ではなく、インドネシアの独立運動にとって日本がどれほど重要だったかを物語ってる。
パラオ──「日本は第二の母国」
パラオは第一次世界大戦後、日本の委任統治領となり、戦前から道路・港湾・学校などのインフラ整備が進んだ。
農業や漁業の技術も導入され、多くのパラオ人が日本語を学び、日本文化と共に暮らした。
戦後もその記憶は色あせず、先代大統領トミー・E・レメンゲサウ・シニアはこう述べている。
「日本は、私たちの歴史と心の中で、いつまでも信頼できる友人だ。」
今もパラオの年配世代は日本語を話し、靖国神社にはパラオ出身の戦没者が祀られており、遺族が参拝に訪れる。
他の国からの声
- 台湾:「日本時代は良かった」という年配層の声。インフラや教育制度の評価は根強い。
- ビルマ(現ミャンマー):アウンサン将軍が日本軍と協力し、独立の土台を作った歴史がある。
- インド:チャンドラ・ボースが日本の支援を受け、インド国民軍を率いた。植民地支配に抗った同志としての視点がある。
- フィリピン:被害は大きかったが、元大統領フィデル・ラモスは「過去より未来を見よう」と発言。
戦後の日本は、欧米から見れば「敗戦国」。
けれどアジアの一部の国々から見れば、「独立の種を蒔いた存在」だった。
この歴史の“見え方の差”は、終戦記念日をどう捉えるかにも大きく影響してる。
ある国にとっては屈辱の日、別の国にとっては希望の火が灯った日──。
その両方を知ることが、今の平和の土台を考えるヒントになるのかもしれない。
まとめ-終戦記念日 改めて 《先人への感謝の日》
終戦記念日について、皆さんはどのように考えていますか。
感情的になるのではなく、事実に基づいて歴史を振り返ってみると、この日が持つ意味は多面的だと感じます。
日本の戦後の教育や情報発信がGHQの政策に大きな影響を受けてきたことは、今では多くの人が指摘している通りです。
1945年8月15日は、命を懸けて未来を遺してくれた先人たちに感謝する日として捉え直すこともできるのではないでしょうか。
戦争という極限状態の中で、家族や国を守るために戦った人々がいたからこそ、今の平和な日本があります。
この日を、過去の英霊へ感謝し、今という時代を生きる私たちに託してくれた彼らの思いを受け継ぐ日とすることで、未来への希望へとつながる新たな意味が生まれるかもしれません。
8月15日は、過去の悲劇を忘れない日であると同時に、私たちが享受している平和と、それを築いてくれたすべての人々に感謝する日でありたいと、私は考えます。
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